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私の8月15日

  小学校6の時から父母の元を離れて祖父母の家に寄宿し、朝鮮の釜山中学校に通っていましたが、米軍の空襲に見舞われる危険性が高くなったため、中学校2年生の一学期が終了した機会に満州に戻り新京中学校に転校しました。家族が住んでいた公主嶺から新京まで通学するのに鉄道で1時間強掛かるので、新京の叔父の家に寄宿することになりました。通学を始めて1週間程経った時に突然にソ連の満州への侵攻が始まり、それまで戦争に直接的な関与の無かった満州全土は大混乱に陥りました。

  関東軍が真っ先に撤退を始め民間の日本人は無防備のまま満州に取り残されました。父が急遽私を迎えに来てくれたのですが鉄道は軍隊の退却のため徴用されており、公主嶺に戻ることができません。公主嶺には祖父と母と幼い妹3人と乳飲み子であった弟が残されており、父としてはどうしても家族のところに戻らねばならないので歩いて帰ろうと言うことになり、早朝に新京を出発して夕方道程の半分ほどの氾家屯にたどり着きました。そこに父の勤務していた農事試験場の支所がありその晩はそこに泊まりました。翌日、氾家屯駅に停車した貨物列車に幸運にも便乗させてもらうことができ1時間ほどで家に帰り着きました。その前日に南下命令が出て母は子供を連れ駅に言ったのですが背負っていた弟の靴を忘れたのに気が付き取りに戻っている間に列車が出発して、妹達3人が駅にぽつんと取り残されていたとのことです。忘れた靴のお陰で一家が離散せずにすみ幸いでした。また、その列車は終戦の日に丁度北朝鮮に入っていたので乗客にかなりの犠牲者が出たということを後日聞き人の運命の不思議さを実感しました。

  暫くして残りの日本人も南に避難させるということになり8月15日の朝、駅に行き無蓋貨車に乗り込みました。祖父はもう歳なので足手纏いになるといけないから此処に残ると言い、また、父は民間防衛隊の一員として止まることなり、結局母と子供5人が逃げることになりました。朝から列車に乗り込み待っていましたが一向に出発しません。そのうち昼頃に重大発表があるかということが伝達され、昼過ぎに戦争は終わったらしいという話が伝わって、皆はぞろぞろ列車を降りて家に帰り始めました。私にとってははっきり認識することなくうやむやのうちに戦争は終わってしまいました。

  しかし、在満日本人の辛苦はその時から始まったのです。敗戦から何日かの後、進駐してきた軍規の乱れたソ連兵による数多くの暴挙によって何人かの方が命を失いました。また、満人の略奪によって日本人は全財産を失いその後辛い生活を強いられました。ソ連軍撤退の後の共産党八路軍と蒋介石軍との2度にわたる市街戦をくぐり抜けて2年のちに一家揃って引き揚げました。祖父だけは残念ながら終戦の年の冬に亡くなり満州の地にいまなお眠っております。

私の七十有余年の生涯において価値観が覆させられたことが2度ありました。一つは満州で体験した60年前の大日本帝国の敗戦であり、一つは10年程前のマルクス・レ-ニン主義を標榜していた国々の崩壊です。自然現象は「真実は常に真実」ですが、人間の言葉には異なった価値観が隠されているということを教えてくれた出来事でした。この教訓から最近声高な人為的地球温暖化も100%信頼していいのかなという気がします。

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